ユネスコ地球市民性教育(GCED)フォーラム(3)

フォーラムの最終日。「ポスト2015に向けた行動の枠組み作り」がテーマであった。5月に韓国の仁川で開催される、「世界教育フォーラム」で議論され、決定される地球市民性教育の行動計画について、2日間の議論をもとにその視点や重要なポイントが共有された。

韓国からは国の報告が、Education International(世界教職員組合)からは、教師側の視点が、ユースからは、学習者の視点が話された。さらに、昨日の行動枠組みの分科会で話された、政策、実施、評価それぞれの話が簡潔に共有された。

特に強調されたのは、地球市民性教育そのものの定義の統一を図るのではなく、共感、連帯、正義といった原理の部分で合意し、また、その地域、文化の特徴や文脈に合わせて実践すること、そのために、多様なステイクホルダーが関わることである。

その中でも、現在の紛争や軍事化により国家や住む場所を追われる難民たちなどへのGCEDの進め方については議論が足りないことも指摘された。

そして、最後は「世界教育フォーラム」の紹介があった。「ポスト2015」の教育目標とターゲット、指標を決める会議である。2015年5月に韓国、仁川で開催される。5月18日~19日が市民フォーラム、19日~21日が本会議である。名古屋で行われた「ESDユネスコ世界会議」では、市民フォーラムが立ち上がらなかったので、今回は、NGO側もいろいろ動いているようだ。DEARとしても、ぜひ機会を頂き、参加したいと思っている。
参加者たちと
会議の後、リリーとアナ、セネガルのシェイクとブラジルのマヅダの5人で、振り返りと今後の戦略を考えた。それぞれ、感想を聞かれたので、思ったことを話した。

私は、やはり、会議の持ち方と、結局この会議の結果がどのように反映されるのかが、明確ではないことが気になった。各分科会の話は一部しか反映されていない。そして、「平和を作る地球市民性教育」がテーマなのであれば、具体的な世界の状況を考えて、今起きていることを、議論したかった、と伝えた。マヅダも、本当に地球市民性を育てようとしているのであれば、今、シリアやナイジェリアで起きていることを、なぜ、正面から取り上げないのか、の疑問を訴えた。

例えば、フランスの先生に、銃撃事件の後、クラスでどのような授業をしたのか、について聞いてみたかったと。昨日のEducasol Dayはよいチャンスだったのだが、私たちのいないところで、話されていたのかもしれない。実際にユネスコ会議の参加者には、パレスチナの方も、ナイジェリアの方もいた。分科会ではそういう話もあったのだろうけど、全体会の話には反映されていない。

例えば、今、政府自体が崩壊しているような国で、「市民性」とはなんなのか?暴力でしか、主張ができない人たちとどのように対話するのか、そういうことを話したかったと、シェイクも言っていた。「ユネスコは時間も気にしている」とリリーが言っていた。でも、今ある問題に向き合えないで、これからの15年の目標なんて、達成できるのだろうか。

とはいえ、地球市民性や持続可能性のための教育が、世界的な教育の目標になることは、オルタナティブな教育に関わる世界中の人たちに励みになるだろう。今後はその目標をいかに、各現場の文脈に落として、自分たちのものにしてもらえるか、が重要になると思う。今後、3月には最終案がまとめられるらしい。
風刺新聞「シャルリ・エブド」
夕方、フォーラムから解放され、マヅダと二人でパリの街に出た。セーヌ川のほとりで、ホットチョコレートを飲み、ひとしきり教育談義に花を咲かせた。先日、銃撃事件があった、風刺新聞「シャルリ・エブド」のバックナンバーが€10~€20くらいで売られていた。(本来は€3)。「私は、チャーリー」と書かれた張り紙も見かけた。
「私は、チャ―リ―」と書かれた張り紙も街中で見かけた
ときどき銃を持った警官がパトロールをしている以外は、銃撃事件の影響はあまりないように見せる。しかし、街で、スカーフを巻いている人はほとんど見かけなかった。ユネスコの会場を出た途端、物乞いの子どもがいた。夜は氷点下になる気温の中、小さな子どもを抱いたホームレスの母親がいた。
セーヌ河
パリの光と影。世界中にある貧困、格差、差別、暴力、に対して、教育は何ができるのか、根本的に今とは違う、考え方・方法が必要とされているのではないか、と感じた3日間であった。
(報告:中村)

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